東洋医学の診断の基本として「虚実」についての問題があります。日本漢方では「虚」は体力がない人、「実」は体力がある人という前提がありますが、漢方の勉強を始めた当時から、体力があれば病気はしないだろうが‥‥、と異和感を覚えました。日本漢方では腹診を重要視して腹部の筋肉がしっかりと張っていれば「実」、フニャフニャだったら「虚」と診断します。同じ人間でも状況によっては張ったりフニャフニャだったりすると言うのです。今でも腑に落ちません。
その点、中医学の説明は明快で、体に足りない物があれば「虚」、余計な物(邪)があれば「実」と診断します。「虚」であればこれを補い、「実」であればこれを取り除きます。これは西洋医学にも応用が利く概念で、ひいては日常生活でも参考になります。
一人生活で寂しい思いをしている人がいます。これは「虚」です。ここに可愛らしい子猫や犬などのペットを飼うことでその人は癒やされます。しかし、ネコや犬は世話が大変でとくに犬は狂犬病のワクチンなどいろいろ面倒です。こうなれば「実」です。その点、ウサギは騒がないし飼い主がいなくても寂しがらないので最近ブームとなっています。
不幸にもペットが死んでしまったら精神的にもダメージを受けます。また「虚」になったのです。ペットロス症候群という立派な病名もついています。犬好きの長谷川町子さんも、人間のように聡明な飼い犬のことを漫画で紹介して、その犬が死んだ後、「もうもう犬は飼いません」と締めくくっていました。
その反対に、50年以上も長生きする大型のオウムやヨウムは、飼い主以上に生きる可能性があるので、「私が先に死んだらどうしよう」と心配している患者さんもいます。 更年期障害と称して受診する患者のお話を伺うと、人間関係で「虚」になったり「実」になったりしている場合が少なからずあります。寂しいとやはり「虚」、苦手な人が邪、すなわち「実」になっているのです。
ご主人が亡くなってから生きる張り合いがなくなり、長年にわたってうつ病の治療を続けている患者さんがいます。私の顔を見るたびにため息をつくので、何と声をかけて良いのか困ってしまいます。薬でどうにかなる問題ではないので心理士によるカウンセリングも行っています。これは「虚」のケースです。
お子さんが何度も受験に失敗して自律神経失調症になった患者さんもいます。三度目の正直で無事に志望校に受かったのもつかの間、今後は下の子が問題を起こして、またまた調子を崩して受診されました。やれやれ、またですか。笑うしかありません。患者さんも笑ってくれました。お子さんたちが「実」になったり「虚」になったりしています。
つぎは典型的な「実」のケースです。うつ病の範疇に入る五十代の女性が受診しました。近所に両親や夫の両親、それに頑固な祖母も健在で、皆、この女性のおとなしさにつけ込んで無理難題を言うのです。患者さんは涙ながらに不安や体調の悪さを訴えました。ときにパニック発作まで起こします。意地悪な老人達はそれぞれ持病を持っていて、あと何年かすれば亡くなりそうです。さいわいにも娘さんは良き理解者でお母さんを支えてくれます。取りあえず抗うつ薬を処方し、「医師ともあろう者がこんなことを言っちゃ問題だけど、もう少し辛抱してお年寄りたちが死ぬのを待つしかないね」と励ましました。
はたして一人二人と亡くなるに従い、病状は改善していきました。
第246回 忙酔敬語 虚と実