佐野理事長ブログ カーブ

Close

第723回 忙酔敬語 グレン・グールド

 私は幼少児からのガチの不眠症です。不眠の原因としては、不眠へのこだわり、あれこれと思いを巡らせる、など心因性の問題があります。その解決法として注目されているのがマインドフルネスです。耳に入ってくる物音をそのまま何の評価もしないで受け入れるという方法です。狩猟民はすでにそのワザを習得していて、歩いていてもそれまでのルートにあった物事を自然に受け入れて、しかもそれをぜんぶ記憶しているとのことです。

 自称「野良人」の桐谷健太さんは、モンゴルの山岳地帯ににユキヒョウをもとめるNHKの取材旅行に参加しました。さすが野良人、ユキヒョウが排尿したと思われる場所の匂いをクンクン嗅いでいました。そして最後に「耳を通り過ぎる風の音の心地よさは本当に良いものです。何も考えずに受け入れることができました」と語りました。

 ふつうの都会人にとってはマインドフルネスは難しいと思います。耳に入ってくる車の音は不愉快です。夏の暑い夜に窓を開けていたら、列車の音に加え、ヘリコプターまで飛んで来てとても評価しないで受け入れるなんてことはできませんでした。そこで考えたのがスマホでお気に入りの曲を聴くことです。癒やしの曲なんてダメです。自分のお気に入りなら歌謡曲でもロックでもOKです。要するに自分が集中できる曲を選ぶことです。

 はじめは20世紀最大のピアニストと言われたルービンシュタインのノクターンを聴いていました。しかし、しだいに飽きて、バラードにしてみました。華麗ではありましたが冗漫で聴いていて腹が立ってきました。腹が立ったら眠れたもんではありません。今度はスケルツォにしてみました。目まぐるしい曲ですがさすが巨匠で難癖をつける隙はなく、4番あるうちの3番までたどり着くこともなく眠ることができました。

 現役ピアニストのイリーナ・メシューエワさんが『ショパンの名曲』でルービンシュタインよりも半世代先輩のコルトーを絶賛していたので聴いてみました。90年前の録音なので雑音入りでした。クセが強くて、テンポも自由、右手と左手のテンポがずれることもあり、はじめはビックリしましたが、慣れてくると味わいが深くなり馴染んできました。あるとき、コルトーのリサイタルでポンと動画にしたところ、はじめに幻想曲ヘ短調が流れてきました。それが中田喜直作曲『雪の降る街を』と同じメロディーだったのでビックリしました。もっとも同じなのは出だしだけで、あとはそれこそ幻想曲で何もとらわれない自由な旋律が流れてきました。これにははまりました。やく半年も聞き続けました。

 西洋音楽のなかではバッハが一番格が高いそうです。コロナが流行りだしたとき、Eテレで、主だった演奏家が人々を励ます企画をしました。採用された曲のなかでバッハが一番多かったので、ためしにバッハで眠ろうとしましたが、私には重たくて胃もたれしそうになりました。それから6年、グレン・グールドで再挑戦したところ、音がとぎすまされたように繊細で自由なので、すなおに受け入れることができました。グレン・グールドはイッちゃってる奇人で、人前での演奏はやめて録音に没頭しました。そして演奏に集中するあまりブツブツと歌いだします。それは録音されてもかまわないのでした。ピルの処方で来たピアノ科の学生が「試験はバロックです」と言うので、知ったかぶりをして「バッハは姿勢を正して弾かなければならないよ」と教えました。ところがグールドは猫背で鍵盤を舐めるようにして弾いていたので赤っ恥を掻いた思いでした。とにかくグールドの演奏は純粋でルービンシュタインやコルトーよりも短時間で眠りに入ることができます。