大塚敬節先生は、明治政府によって憂き目にあった漢方を復活させた、昭和の漢方の立役者です。高知出身で、30歳まで高知市の田舎医者として地域医療を懸命に担っていました。27歳から漢方に興味をいだくようになって独学で勉強を開始。そして翌年の28歳のとき、今となっては伝説的な経験をされました。
ある日、隣村から10歳の女の子が瀕死の状態だといううことで往診を頼まれました。大坂の小学校の運動会で倒れてから3日間意識を失い、意識が戻ってからも痙攣発作を繰り返すようになりました。あちこちの病院を受診しても良くならず、それでは郷里で死なせてやろうということになりました。要するに家族はもうあきらめていて死亡診断書さえ書いてもらえばよいとのこと。大塚先生も気がラクになり余裕をもってその子を診察しました。すると痙攣発作の後にしきりに生あくびをする。「確か、漢方の医学書に生あくびをする患者について書いてあったぞ」と思い出して、帰宅してから『金匱要略』を紐解いて調べところ、「女性がヒステリー発作を起こして盛んにあくびをする、こんな症例に甘麦大棗湯が効く」と書いてあるのを見つけました。時は昭和3年、明治政府の方針で医学は西洋医学一辺倒で漢方の暗黒時代でした。漢方薬だと分かると患者は飲ませてもらえないと思い、先生は2日分を自宅で煎じてビンに詰めて家族に渡しました。思いの外、患者は美味しそうに飲んでくれたので、さらに10日分を追加したところ、日に日に痙攣は減っていき、1ヵ月で尿失禁がなくなり、3ヵ月で痙攣もほどんど消失。そして5ヵ月たつと履物をつけて歩けるようになり、翌年の4月から小学校に通うようになりました。この間、10ヵ月、患者の家族はもちろん、先生も漢方の威力にすっかり驚いてしまいました。先生はこの体験を熱い思いを込めて書き残しました。
そしてこの話はレジェンドとなり、様々な漢方の解説書に掲載されるようになりました。かく申す私も、甘麦大棗湯をぜひとも使ってみたい!と思いました。甘麦大棗湯は甘草、小麦、大棗(ナツメ)で構成され、甘くてまるで食べ物のような薬です。長女の夜泣きに使ってみたところ、風邪気味でコンコン咳をしていたのに咳き込みながら寝込んでしまったのにはビックリしました。何だかヤバイ薬を飲ませてしまったぞ、と思いましたが、「待てよ、薬らしいのはせいぜい甘草だけ、大丈夫、大丈夫」と胸を押さえました。
最近になって、私は漢方薬の長期投与に疑問を抱くようになりました。昔の大家が長期間かけてジックリ治した症例を記述しているのを読んで、本当に漢方が効いたのか、と疑うようになったのです。死ぬような病気でもなければ、大抵は2ヵ月も3ヵ月も治療を続けていれば、いくらかは良くなります。医師・患者関係が悪くなければですが・・・。
10歳の女の子は運動会で恐ろしい目に遭ったための心的外傷後ストレス症候群(PTSD)の可能性があります。また、高知は昔から辺鄙でロクな医者がいなかったので、医師に対する信頼度が低く、はなっからあきらめムードでした。しかし、大塚先生の真摯な姿を見た家族は希望を抱くようになりました。女の子も大坂では痛い注射や苦い薬を飲まされていたのに大塚先生は優しくてお薬は甘い。不安はだんだん解消され、とうとう学校へ行けるまで回復しました。大塚先生は漢方のなせる技と勘違いし、2年後に妻子を高知に残し(後に引き取りましたが)、本格的に漢方を学ぶべく東京へ旅立ったのでありました。
第204回 忙酔敬語 大塚敬節先生の勘違い