讀賣新聞の『人生案内』に次のような相談が寄せられました。
〈今年60歳を迎える会社員女性。新築の家で、とても優しい夫、犬と暮らしています。2人の娘は自立しており、しっかりした生活を送っているので、何の心配もありません。とても幸せな毎日ですが、悩んでいます。このまま長生きしてしまうのが怖いのです。
それまで親の介護、前の夫の破産と離婚、無理がたたり歩けなくなったり、がんを患うなど大変な思いをしてきました。そのため、今死んだとしても、恐怖も悔いもありません。ただ80歳、90歳と長生きしてしまって、回りに迷惑をかけていることにも気づかなくなっていくことが怖いのです。最近は体に良いというものを口にすることもできなくなってきました。心の持ちようがあれば教えていただきたいです〉。
相談員はメンタルヘルスで高名な大野裕先生です。
〈・・・。あなたが手助けを必要を必要とするようになったとき、まわりの人たちは、大切なあなたのために進んで手助けしたいと考えるでしょう。あなたが少しでも楽になったのを目にすれば、あなたが気づいているかどうかにかかわりなく、うれしい気持ちになります。私たちは、人が喜ぶ顔を見たとき、一番の幸せを感じます。・・・〉。
長生きに対して恐怖を訴える患者さんは、私の外来ではほとんどいないので、この記事を切りぬいて2人の心理のおネイ様に見せたところ、「よくあることですよ」とのこと。大野先生のコメントに関しても「良いと思います」を口をそろえて言いました。
しかしながら私は今一つ納得できなく、自分なりに考えました。一体全体、どうして相談者がそんな気持ちになったのか?
精神科医エリック・バーンの提唱した「交流分析」によると、人の生き方のタイプとして、「自分も他人もOK」、「自分はOKだが他人はOKではない」、「自分はOKではないが他人はOK」、「自分も他人もOKではない」と4つのパターンがあるということです。そして人は基本的に4つの中のいずれか1つのパターンにそった人生を送る傾向にあります。別の生き方に変更するというのはけっこう難しいのです。
この女性の半生は気の毒にも「自分はOKでない」だったので、今の「自分はOK」の境遇を受け入れることに居心地の悪さを感じているのでしょう。新聞の回答には制限があるので、私だったら「交流分析」を追加しながら対応するのになあ、と思いました。
私自身の人生をふり返ると、60歳の半ば過ぎてからは、やることはやったし「いつ死んでも良いなあ」と思うようになりました。ダメになる覚悟もできています。ただし、まだ私を必要とする人たちがいるので、良いものを食べて運動もして頑張っています。
話は急に変わりますが、ネコは捕らえた獲物を家に持ち帰って自慢すると言われています。確かに昔、実家で飼っていたネコもときどき雀を口にくわえてきて、見せびらかしました。いまどきはキャットフードがあるので、こんな経験をする人は少ないでしょうが、あれは自慢ではなく、狩りの仕方を子ネコや飼い主に教えようとする本能だそうです。
相談者のまわりの人たちは、優しいご主人以外はまだ「老い」を知らないと思います。これからは「老い」の勉強を身をていして教えていく大事な時期でもあります。