前回のブログで、私は、うつ病の患者さんにいきなり「死にたいとは思いませんか?」と確認すると述べました。皆さんの中には「それはいくら何でもデリカシーがないのでは」と思われた方もいるかもしれません。まず患者さんを刺激しないで、「そっと見守る」のが思いやりというものではないかとお考えになるのでしょう。
でもね、「そっと見守る」というのは何もしないのと同じことなのですよ。極端に言えばネグレクトと大差ありません。
患者さんを診察するとき患者さんの訴え以外に注意する点は、通常では見られない状態の確認です。リストカットの痕があれば必ず「何かつらいことはなかったですか?」と手首をなでながら訊ねます。見て見ぬふりはしないことにしています。若い患者さんが落ち込んでいるときは、ひょっとしてはと手首をめくり上げることまでしています。こうした行為で患者さんに身を引かれたという経験はありません(と思います。歯切れが悪いね)。
生理不順で受診した若い女性のリストカットの痕をなでたとき、彼女は涙を流しましたが、その後、漢方の治療だけで不正出血は治まりました。「また何かあったら来てくださいね」と言葉をかけただけで、それ以上の詮索はしませんでしたが、患者さんは何だか安心したようでした。「自分を分かってくれる人がいた」と思ったんでしょうね。私の勝手な思い込みかもしれませんけど‥‥。
十代の女の子が、親の知らぬ間に妊娠して、陣痛が始まり、当院に受診したなんていう例は何度かありました。たいてい、あれよあれよという間にお産となり、一緒に来たお母さんはビックリですが、本人は赤ちゃんの顔を見て嬉しそう、という結末がほとんどです。お母さんに訊くと、「うすうす分かってはいましたが、ちょっと見守っていました」。こういったパターンって少なくありません。
お子さん、友人など、親しい人が「最近、ちょっと様子が変だな」と思ったら、ためらわず「何かあったの?」と声をかけてください。「うーん、何でもないの」と言われるケースの方が多いかもしれませんが、それ以上、問題が大きくなったとき、相談してくれるきっかけとなります。「うるさいはね、ほっといて!」と言われたらどうしようと心配ですか? しかし、「そっと見守る」よりもずっとマシです。
ここで思い出したのが、『ハリー・ポッター』のシリウス・ブラックの死です。シリウスは屋敷しもべ妖精のクリーチャーに対して冷淡で全く無視(ネグレクト)していました。そして、クリーチャーの裏切りが命取りとなりました。これについてダンブルドアは「ネグレクトは単なる虐待よりもはるかに相手の心を傷つけるのじゃ」と述べています。『ハリー・ポッター』シリーズははっきり言って幼稚で、私は途中で投げ出しましたが、このダンブルドアの言葉は心理学的にも正しいと感心しました。
若いカップルが人工妊娠中絶のために受診しました。そのときまだ血の気の多かった私は、彼氏に「なぜ、責任ある行動をしないんだ」としかりつけました。後で、彼氏は「今まで親にもしかられたことはなかった。先生からしかられて驚きました」と電話をくれました。私は、彼が親にネグレクトされて人生を送ってきたことを知り、哀れに思いました。そして、私の心情を理解してくれたということで、彼自身にまっすぐ生きる素質があると確信しました。十年以上たった現在、彼は立派にやっていることと信じています。
第107回 忙酔敬語 「そっと見守る」とネグレクト