雪のなかでも通勤は相変わらずスパイク附き防寒靴での歩きです。あと5分で到着というあたりに大きな柳の木が暗闇の中に立ちはだかっています。そこはナナカマドの並木道なので一本だけ間違って生えてしまった感じです。でも大切に手入れはされているようで、5年に1度くらい、梢がカット(剪定)されます。それも思いきったカットなので柳の木は丸坊主にされたように侘びしい姿となりました。まるでヒツジが羊毛を刈られて丸裸になったようでした。そこまでしたら枯れてしまうではないかと心配になりましたが、その後もさらにたくましく枝を伸ばし、今では雪に被われた梢は重そうに垂れ下がっています。
平成十年代の頃、朝日新聞の夕刊に、戦前、反戦的な言動のため政府に危険人物として目をつけられた俳人・歌人の作品が連載されました。私のお気に入りの企画でした。
そのなかで一番印象的だったのが渡辺白泉の俳句です。俳句で約束ごとの季語はありませんが実に不気味な句です。その存在感のため今でも名句として語り継がれています。
戦争が廊下の奥に立ってゐた
短歌では新潟県出身の評論家で弁護士・歌人でもある平出修の歌が好きでした。現在、新潟市に歌碑があり、県民にはよく知られています。
柳には赤き火かかり わが手には 君が肩あり 雪ふる雪ふる
はじめ、柳の枝に灯火が掲げられているのかと思いましたが、巷の灯火が柳の梢の雪に赤く反射しているというのが通説です。つぎの「わが手には君が肩あり」。今の私は恋愛にはまったく興味がなくなりましたが、当時はこの五・七にグッときました。恋人でも妻でもかまいません。小柄で幸せ薄そうな女の人を思い浮かべました。そして「雪ふる雪ふる」。八字と字余りではありますが、「雪ふる」を重ねることで雪がしんしんと降っている様子を見事に表現しています。私だけでなく誰でも感心するらしく「雪ふる雪ふる」というお菓子が大阪屋から季節限定で販売されています。さすが抜け目がないですね。
私は恋愛に関してはたんなる生物的な反応だと考えていました。自分自身を思い浮かべるに男性ホルモンの分泌の低下にともないムラムラとした衝動性が消えて、今では色恋沙汰で迫られてもビクともしない自信がつきました。煩悩の一つから解き放された感じでサッパリしています。患者さん相手でも昔なら恥ずかしくてとても言えなかったセリフが平気で口から出てきます。ただし誤解があったら大変なので、そばにスタッフがいることが前提で、スタッフの顔色をうかがいながら言います。ときには「オレの言ったこと、セクハラではないよな」と確認します。たいていはOKです。年取るのも悪くないなあ。
私と同年代の小池真理子さんは『知的悪女のすすめ』でデビューしました。写真を見るとけっこうな美人でした。そんな美人が自称知的悪女ですって。恐くてお近づきになりたくないなと思ったことでした。そんな彼女が、去年の1月に亡くなったご主人のことが忘れられない、と昨年の5月から朝日新聞の土曜別刷りbeに綿々恋々たるエッセイを連載しています。恋愛に年は関係ないのだなあ、と我が説はぐらついたのであります。