作家の筒井康隆さんは奥様と上京する日はいつもホテルニューオータニで夕食をとるそうです。79歳の時のことでした。顔馴染みの若いマネージャーがつくづく不思議そうに訊ねました。
「ご夫婦はいつも、どうしてそんなに仲がいいんですか。わたしども夫婦は一緒に外食をするどころか、顔をあわせれれば喧嘩ばかりで・・・」
それに対して答えた内容のポイント。
「妻の不満を面倒がらずに聞いてやること。その際には反論してはならないこと」
以上、短編集『繁栄の昭和』(文春文庫)に納められている「高清子とその時代」の最後の方に出てくる場面です。
筒井さんは戦前から戦後の喜劇映画に出演した忘れられた女優、高清子に惚れ込みます。
〈この映画を何度も見ているうち、ぼくはすっかり高清子にのめり込んでしまった。ドつぼにハマったようなもので、悩ましくて夜も眠れない〉
実はこの女優さん、筒井さんの奥様とそっくりなので、〈とにかくそういうことは結局のところ妻そのものを愛しているに違いないと思うからやましさはまったくない〉
どんな美人か気になりましたが、ベティちゃんにもそっくりとのことで想像がつかなくなりました。ネットで調べてみたら何と文庫本の表紙のモノクロ写真が高清子と判明しました。楚々とした美人で、どこがベティちゃんに似ているのかな、と不思議に思いました。
筒井さんが高清子を知った時はすでに彼女は亡くなっていました。昭和57年5月24日享年69歳。その時の筒井さんは47歳で年齢差は母と子ほどもあります。それなのに身を焦がすほど惚れ込み、息子さんまで動員して高清子のあらゆる資料を集めました。
この原稿を書いた時、奥様の年齢は高清子のちょうど没年齢でした。短編は以下の文章で終わります。
〈深夜、この原稿を夢中になって書いていると、寝室との境のドアを開けてネグリジェ姿の妻があらわれた。くすくす笑いながら彼女は言う。「なに根つめて書いてるのよ」〉
これだったら仲よくするのに特別な秘訣は必要なさそうですが、筒井さんは心理学にも造詣が深く、はじめに紹介した「不満を聞いてやること。その際には反論してはならない」は、心理学の大家ロジャーズの言う「無条件の肯定的関心」のことかと思われます。
筒井さんは若い頃はSF作家とされていました。『時をかける少女』が一般的に知れられています。しかし、純文学、パロディ、ナンセンス、ドタバタなどあらゆる方面で創作活動をしています。高齢化をテーマとした『敵』、『銀嶺の果て』という傑作があり、まさに鬼才です。心理ものとしては『心狸学、社怪学』、『パプリカ』など多数あります。
まだ昭和の頃、NHK「今日の健康」で心身症をテーマにした番組が放映されました。解説は東大心療内科初代教授の石川中先生。ふつう「今日の健康」ではアナウンサーが司会進行を務めますが、俳優でもある筒井さんが「こんにちは筒井康隆です」とバリトンでのっけから登場し、石川先生にいろいろ質問して盛り上げていきました。私の知る石川先生はシャイな方でしたが、筒井さんの演出でビックリするほど能弁に語られていました。
夫婦間だけでなく、ケンカしたくない人に対しては「相手の話を否定せず、肯定的な関心を持って聴く」というのは心理面接の基本で、それだけで相手は安心するものです。