佐野理事長ブログ カーブ

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第766回 忙酔敬語 戦争を知らない子供たち

 第2次大戦から81年たった現在、戦争を知らない子供たちにどうやって戦争の悲惨さを伝えればよいのか取りざたされています。こうしたテーマが出るたびに私はため息をつきます。私が生まれたのは終戦後10年もたっていない頃です。父はシベリア抑留帰りでした。母は戦時中、喜茂別の栄養学校で農作物を盗み食いしていたそうです。

 小学生時代の記憶をたどると日本人は本当に戦争に懲りていたのだろうか?という疑問がわいてきます。少年マガジンや少年サンデーには、戦争中の日本の戦闘機がいかに優秀だったとか戦艦大和や戦艦武蔵がいかに凄かったかとか連載されていました。ベトナム戦争の時代になるとアメリカの戦闘機についての連載がはじまりました。

 父はシベリア抑留でひどい目にあったはずなのに、先輩からロシア語の会話をするようにすすめられた結果、ロシア人の看守に気に入られて家に招かれご馳走された話をしていました。母は食糧難の時代に喜茂別にいたためまるまると太っていました。

 母の父、すなわち私の祖父はへそ曲がりで、戦時中、質素倹約のために弁当のオカズは梅干しだけと指定された日にかぎって豪華な弁当を持たせて、さすがの母も困ったそうです。歯科医だった祖父は「この戦争は負ける」と言ってはばからず回りの人をハラハラさせましたが、変人としてまかり通っていたので憲兵も相手にしなかったようです。

 しかし、後になって栗原俊雄『シベリア抑留』(岩波新書)を読んだ父は「全部このとおりだった」と暗い顔をして言いました。高校時代の友人だったK君のお父さんは戦争物のドラマはいっさい見なかったそうです。いつもはひょうきんだった母方の伯父は、戦争物のドラマで兵隊がザッザッザと行進する音を聞いただけで「もうダメだ」と目を背けました。トラウマは後になってから現れたのです。

 戦争の悲惨さを人々につぶさに伝えたのは、ベトナム戦争時のテレビ放送でした。また北爆か・・・。テトの休戦がホッとさせてくれました。映画でも『プラトーン』や『地獄の黙示録』などがあります。アメリカのニュース週刊誌『タイム』はベトナム戦争で戦死した多くの若者の写真を掲載して無言の主張をしました。作家の筒井康隆さんは『虚航船団』で、各家庭に行きわたったテレビ中継が核抑止力になっていると述べています。

 鶴見俊輔さんは原爆投下をしたアメリカを許すことが出来ず、戦後一度もアメリカの地をアラスカも含めて踏むことはありませんでした。国防省がもう勝敗はついているから原爆は不要であると提言したのにトルーマン大統領は投下するように命令しました。そもそもトルーマンはテロ集団KKKに所属した経歴もあり要注意人物でした。原爆の開発者のオッペンハイマー博士は自分を責めましたが、トルーマンはじめ多くのアメリカ人はケロッとしています。クリント・イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』を観て、どうして原爆投下をしたのか心情的に理解できました。ありていに言えば日本が怖かったのです。米軍は硫黄島に上陸するにあたって徹底的に艦砲射撃をしました。もう反撃はないだろうと思ったらトーチカから撃ってくるは撃ってくるはで米軍兵士の肉体が飛び散りました。映画と分かっていても恐ろしくなりました。結局米軍の勝利となりましたが、米軍の犠牲も相当数にのぼりました。ですから必要ないと言われても使ってしまったんですね。

 戦争の形態は現在と当時では違います。現在、世界中で行われている戦争は勝っているんだか負けているんだか分かりません。もう人を殺すな!言えるのはこれだけです。