佐野理事長ブログ カーブ

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第752回 忙酔敬語 防人の歌

 父母が頭かき撫で幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる

 防人に行くは誰背と問ふ人を見るがともしさもの思ひもせで

 これらの歌は『万葉集』に納められた防人の歌で私がすぐに思いつく二首です。なんのための兵役だったんでしょう? 放送大学の「日本の古代中世史」を観て納得しました。

 飛鳥時代、日本は朝鮮半島の百済の求めに応じて中国の唐と朝鮮の新羅を相手に白村江の戦いをして大敗しました。這々の体で逃げもどった大和朝廷は、唐が攻めてきたら大変だと対馬や九州を中心として砦を築き兵を配置しました。

 歴史の授業で知ってはいましたが、どこまで本当か疑問に思っていました。放送大学の「古代日本史」の担当講師、九大名誉教授の坂上康俊先生は対馬や太宰府など現地まで行って城跡を紹介して解説しました。教科書を読むのと違って説得力がありました。天智天皇を中心とした朝廷の危機感がひしひしと伝わりました。そして『万葉集』の数々の歌が現実味をおびてよみがえりました。その一つが額田王の歌です。

 

 にぎたつに船乗りせんと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

 戦闘への旅立ちで景気づけに詠んだ歌ともされています。額田王は才女で多くの秀歌を詠んでいます。また天智天皇や天武天皇からも愛されました。漫画家のヤマザキマリさんはクレオパトラを例にとって、もてる女性は絶世の美女ではなく頭が切れる女性だと語っていました。額田王もほどほどの可愛いさだったと思います。私は以前からどんな女性かと気になっていましたが、ヤマザキさんの言葉で腑に落ちました。

 さて日本軍はどうして白村江の戦いで大敗したのでしょうか? 万葉仮名でも分かるように当時の日本軍は情報のやり取りはほとんど口頭だったと考えられます。万葉仮名はまだ日本語を自由に表現できなく苦肉の策の当て字でした。まとまりのない言ってみれば烏合の衆みたいな軍隊だったと思われます。一方、唐は伝達に文章を用い、また戦法も確立していました。いくら日本兵が猛々しくても木っ端微塵になったのも当たり前です。陸上戦だけならまだしも水軍同士の海戦ですからなおさらです。

 古墳から出土される埴輪たちは重厚に武装しています。内戦にしては大げさだと思っていましたが実は唐が相手だったようです。納得しました。都を飛鳥や奈良の内陸にしたのも水路で押し寄せる敵に対応するためと言われています。

 いずれにせよ国防意識は現代の日本人よりもはるかに高かったのは確かです。日本も法律的に曖昧な自衛隊に頼らないで憲法を改正してしっかりとした軍隊を作るべきという風潮が高まっていますが、こんな考え方は古代と同じです。今は情報のやり取りはしっかりできるので、すべて外交で解決すべきです。兵器にお金をかけるくらいなら相手国の経済援助をする方がはるかにコストパフォーマンスがすぐれています。近世の中国において北宋・南宋は軍事力が弱く北方民族に絹織物・銀など多額な贈りものをしましたが、軍事費が激減したため文化・経済は大いに栄えました。多額な贈りものは経済援助と考えれば良いのです。命のやり取りをするよりもお金で解決する方がはるかにマシです。