猪ノ川先生の生命倫理の最終講のテーマは安楽死でした。
ある大学病院でのこと。生きる望みのない末期癌の患者さんとその家族のたっての希望により、主治医はカリウム製剤を静注して死に至らしめました。この報道は私も覚えていたので、講義が終わって教室から出たとき、歩きながら猪ノ川先生に言いました。
「カリウムはまずいですよ。殺人になります」
「でも、ご家族も希望していたんですよ」
哲学者の猪ノ川先生は医療の実際はご存じありません。そもそもどうしてこの事件が報道されたのか?現場にいた看護師さんのなかでこの処置に疑問を抱いた人が発信したのでしょう。誰でも納得できる方法があるのに残念な事件でした。
リタリンという薬があります。今は特殊な患者さんに対して登録されている施設でしか使用できません。抗うつ薬で覚醒作用があり気分が高揚します。昔から依存性があるので注意する必要があると言われていましたが、あるガイドブックに、それほど問題はなく使いやすい薬である、と記載さていたのを真に受けて、眠気を訴える女性に処方したところ、やっぱり依存症になってしまいました。カルテをもって札幌市の精神保健センターに相談しに行きました。
センター長のK先生は機嫌良く経過を聞いてくださいました。
「わたしの専門はサイコオンコロジーで、がんの末期で限られた時間の患者さんにはよくリタリンを処方していました」
サイコオンコロジーとは英文ではPsycho-Oncologyと書きます。あえて日本語に訳すと、精神腫瘍学となります。一見、精神的なアプローチで癌の病巣を小さくするかと思いきや、癌で精神が落ち込んだ状態に対応すべく研究する分野と判明しました。
私が産婦人科になったばかりの一年間は、末期癌の患者さんの対応に四苦八苦していました。当時は、緩和ケアとか看取りの医学などは確立されていなく、もちろん癌の告知もなされていませんでした。癌性疼痛の患者さんは気の毒でした。アヘン製剤は依存性におちいるということで、極力、使用しないのが風潮でした。
当時はノンビリした時代で、治療についてもう手段がなくなると、「おい、佐野、あとはお前にまかせるぞ」と先輩医師は言いました。これが一生分の勉強になりました。
まずは患者さんの痛みを解消すること。アヘン製剤や鎮静剤を大量に点滴静注しました。痛みはとれましたが、患者さんはウツラウツラとしながら言いました。
「お父さんに大切なことを言いたいのにボーッとして言えない、悔しいわ・・・」
こんなときにリタリンが効いたかもしれません。
カリウムによる事件が起きたときは、もうすでに緩和ケアのスキルが確立していました。担当医師は自分一人で頑張らず、身近な看護師をはじめ、麻酔科や精神科の医師などと相談すればよかったと思いました。舞台は大学病院です。いろいろな手段があったはずです。事件が報道されたため、ご家族も世間からバッシングを受け、患者さんの死に上乗せされて苦しんだことでしょう。今は末期癌の患者さんは、専門の緩和ケア施設で看取られることが多くなりました。昔、末期癌の患者さんから医療の真髄を学んだ私は、今の若い医師が末期癌を知らないことに危惧の念を抱いています。