「職場がきつくて疲れ切っています。ブラック企業で2年以上つとめたスタッフはいません。気合いを入れて頑張れ!と言われてももう限界です」
うつの質問用紙を書いてもらったらはたしてほぼ満点です。
「死にたいと思ってはいませんか?」
「本当に死にたいです」
これは危ない。すぐに診断書を書きました。うつ状態で希死念慮があるのでただちに休職あるいは退職を要する。
「でも私が辞めたら他の人に迷惑がかかるので心配です・・・」
「人生の主人公はご自身ですよ。自分が無くなればこの世も消えて無くなります」
自分の居場所が自分に合っていなければ、その人は壊れます。雅子皇后陛下もそうでした。外務省の事務官としてはつらつと活躍されていましたが、天皇陛下が皇太子だったときに強く請われて皇室に入ってしまわれました。
雅子様のご不調について天皇陛下が記者会見して全力で擁護する姿勢を示されたとき、私は陛下の男らしさに感心し敬意の念を抱きました。
美智子皇太后も上皇陛下が皇太子のとき「自分がつとめをはたすのには貴女の支えが必要だ」と懇願されて皇室に迎え入れられました。それまで皇太子が民間の女性と結婚した先例はなかったので、日本中お祭り騒ぎとなり、テレビが爆発的に売れました。美智子様の時代はお金持ちのお嬢さまの人生は結婚が前提でした。職業婦人になることは珍しかったので、雅子様ほどギャップはありませんでした。それでも宮中の習慣などまったくの別世界で、お局様たちにチクチク言われて壊れる寸前までツライ思いをされたことでしょう。
美智子様と雅子様は、平成天皇と令和天皇の両陛下がしっかり守ってくださったので何とかやってこられたのでしょう。お疲れさまでした。
平成のとき、中国文学者の高島俊男先生は『お言葉ですが・・・別巻2』で、美智子皇后陛下のお歌を紹介しました。
かの時に我がとらざりし分去れ(わかされ)の片への道はいづこ行きけむ
「あの時、私が選ばなかった分かれ道の片方には別の人生があり、行方は誰も知らない」という意味にとれます。高島先生は心を打たれました。まず、「こんな歌をつくっていいのか?」というおどろき。
〈この皇后という人はずいぶん勇敢な、大胆な、また自由な精神をもった人なのであるようだ。・・・・。天皇も「こら、オレと結婚しなかったほうがしあわせになれたかもしれんなんて、そんなみっともない歌を公開するな」とは言わないみたいだね。図書館でこの話をしたら、何人もの人から、あの方は山歩きがすきだからこれはハイキングの歌かもしれない。・・・。「あの時右がわに道をおりたが、もし左がわへおりていたらどんなところへ出ただろう」。・・・。そうか。なるほどねえ。ぼくは自分の人生を悔いてばかりいるものだから、つい自分にひきつけて受けとってしまったんだねえ。〉
結局、逃げることのできなかった方々のお話しになってしまいました。