佐野理事長ブログ カーブ

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第651回 忙酔敬語 母の言葉 

 よく「昔の親は偉かった」と言いますが、本当に偉かったのでしょうか? 20年以上も前に医学雑誌『周産期医学』につぎのような趣旨のエッセイが掲載されていました。

 〈偉い両親に育てられた子供は健康で生きのこり「自分の親は偉かった」と言えたが、ダメな親に育てられた子供は早く死んでしまったで何も言い残すことはできなかった。だから「昔の親は偉かった」と言い切ることはできない〉

 歴史を見てもこれは明らかです。人類はしょうもない戦争を懲りもせずにくり返してきました。ハッキリ言って昔の人はバカでした。現代人もそうですけど・・・。

 さて、私の両親はどうだったか? 

 父のには軍隊の経験やソ連の捕虜になってシベリアに抑留されたことなど、いろいろ聞かされてきました。軍隊については不愉快な思い出を語る人が多いなかで、父は肯定的にとらえていました。おそらく上官に恵まれていたのでしょう。ご飯に味噌汁をかけたりすると「そんなことを軍隊でしたらぶん殴られるぞ!」と叱られました。また、軍人勅諭を「軍人」を「生徒」に言い換えて覚えされられました。実にバカバカしいことでした。戦争がキライで、戦争するくらいなら降伏を選ぶのが大人の選択だ、と言った司馬遼太郎さんも上官に恵まれていて、この上官のもとなら死んでもいいと思ったとのことでした。

 父はシベリアでも先輩に恵まれ、生き残るためにロシア語を勉強するように勧められました。その結果、ある程度の通訳ができるようになり、看守と仲よくなり、ときどき家に招かれては「さあ食え、さあ食え」とご馳走ぜめにあいました。「ソ連は国としては最悪だが、ロすけ(ロシア人のこと)は個人的には良い奴だった」と語っていました。そして戦後50年たったとき、「北方4島はもう今住んでいるロすけのものだ」と言いました。

 父は10人兄弟の3男で、長男の伯父は軍医として南洋に行き肺結核を患いましたが帰国して代々の田舎医者を引きつぎました。父が一番仲よくしていた次男の伯父は南洋で戦死しました。父より下の叔父たちはまだ兵役にとられる年ではなかったので無事でした。

 晩年の父は肺気腫にあえぎながら「俺は良い時代に生きた。これからの日本は悪くなり大変だぞ」と言っていましたが、どう考えても父の方がひどい目にあっています。認知がかっていたのかなあ?それにしては様態が急変して当院の特別室に入院させましたが、つきそったスタッフを指さし「この人の名前は?」と問いかけるほどしっかりしていました。点滴をすると母に向かって指を2本立てました。母によると「敬夫に200万円やってくれ」とのこと。そして4時間後に息を引き取りました。81歳、あっぱれな最期でした。 

 父のことを書いているうちに母から言われた言葉を書くスペースがなくなってしまいました。まあ、ロクなことは言いませんでした。「女の人に『あの人きれいね』と言われても『ハイ、そうですね』とは答えるな。『ちょっと冷たい感じがするね』と言葉をにごすのが無難だ」「女が本気でせまれば男は必ず墜ちる」「わたしが一番好きなのはウナギだ」その他、人の悪口ばかり言っていました。

 しかしながら認知症になってからは悪口は言えなくなり、したがって人に嫌われることもなくなり、93歳まで生きました。