「突然のお手紙を失礼いたします。たまたま、ブログを拝見し、池見先生が『生かされている自分に気づき、それに対して感謝の念を抱く、それがカウンセリングのゴールです』と話されていたことを知り、池見先生がそのようなことをおっしゃられていたのかと深く感銘いたしました。私は九大心療内科の出身です。お礼を申し上げたく手紙を出させていただきました」
九大心療内科は心身医学のメッカです。そのメッカの先生からこのようなお手紙を頂きビックリしました。でもどうして私のブログにヒットしたのでしょうか? 「九大心療内科 池見酉次郎教授」で検索したら『第118回 忙酔敬語 池見酉次郎先生の遺言』が現れました。二度目のビックリでした。
「生かされている自分に気づきウンヌン・・・」は、心身医学学術講演会で、ある心理士の発表に対して、池見先生が手をあげて「池見ですけど・・・」と発言された内容です。晩年の池見先生は、当時の人々の荒んだ様子に「このままでは人類の将来は危ない」と危惧されていました。精力的に各会場を回ってコメントされていました。その様子は痛々しいほどでした。私なら、どうせ進化のなりゆきでなるようにしかならないのに、と腹をくくった態度をつらぬくのですが、池見先生は観音様のようなお方でした。このあと、会場はシーンと静まりかえりました。とてもじゃないが自分たちがそんな高邁なこと出来るわけがないよ、というようなドン引き状態でした。でも私はゾクッとするほど感動しました。 当時をさかのぼること10年ほど前に、愛弟子の郷久先生が池見先生を札幌に招待して講演会を開催しました。「たとえ治療者がそこまでの境地に達していなくても、患者と手をたずさえて突き進めば、いずれその境地に達するものです」と、仏教の教えを例に出して熱く述べられました。そのため10年後のお言葉を受け入れる下地が出来ているのでゾクッと来たのです。池見先生は「将来の人類を救うのは以上のことを会得した医師である」ともつけ加えていました。
「先生、池見先生はもう影がうすいみたいですよ」
この手紙を郷久先生に見せながら、不遜な私がつぶやいたところ、熱い心の郷久先生は「そんなはずはない、池見先生の精神は永遠に九大に残っているはずだ!」と怒気を含んだ声で言いました。ちょっと怖くなってそれ以上は何も言えませんでした。
文化は時間がたつと発祥の地から消滅して遠くの地に残る傾向があると言われています。中国の古代ではお座りするときは正座でした。しかし異民族の影響でその習慣はすたれて、東夷の日本に残りました。それだけでなく茶道といった高度な文化にまで昇華しました。ただし現在の私はアグラをかくのさえつらいという体たらくです。これまた古代中国発祥の儒教の精神は韓国に忠実に残り、目上の人に対する礼が保たれています。以前、針灸学会での韓国・日本の懇親会で、向に座った若い鍼灸師がお酒を飲むとき顔を横に向けて杯に手を当てたのを見て「やっぱり本当だったんだ!」と驚きました。古代ローマ帝国の公用語であるラテン語は、現在、バチカンでしか使われていませんが、はるか遠くのルーマニア語はけっこうラテン語に近いそうです。
池見先生の精神が、手紙をくださった心療内科の先生に伝わったことを知り、将来の人類は何とかなりそうだぞ、と思ったことでした。