高校生のとき(ミッション系)、倫理の授業で愛には二種類あって、「エロスの愛」と「アガペーの愛」だと教わりました。エロスは性愛でピンと来ますが、アガペーは無償で崇高なんだそうです。要するにエロスに陥らないでアガペーに生きろ、ということらしいのですが、エロスとアガペーの堺がよく分からないまま老境に至ってしまいました。
男女の愛にはエロスとアガペーが混じり合っています。比率はカップルそれぞれです。
エロスの極端な例は、「二・二六事件」と同じ年に起きた「阿部定事件」です。「二・二六事件」はその後の破滅的な戦争への象徴となったので、識者は忌み嫌っていますが、「阿部定事件」は丸谷才一氏、鶴見俊輔氏、渡辺純一氏など、「明るい事件だった」とか、「阿部定は好きだ」とか、小説のネタにされるなど、好意的な評価を受けています。
それに対してアガペーの例となると、ちょっと難しい。そこでハタと思いついたのが『坊ちゃん』の清(キヨ)です。坊ちゃんは四国の松山滞在中、なにかにつけて清のことを思い出し、清は坊ちゃんの夢にまで出て来ます。清は坊ちゃんの実家の下女で、まさに無償の愛で坊ちゃんを可愛がりました。
『坊ちゃん』は、いろいろ映像化されましたがウマくいったためしがありません。マドンナに焦点をあてたからです。実は原作の『坊ちゃん』にはマドンナはほとんど登場しません。制作者はアガペーでは受けないと判断して、マドンナにエロスを背負わせて登場させましたが、そもそも原作と違うのでストーリーに無理が生じて妙な展開となりました。
私の常識は世間一般と異なることが多々あります。その辺のところを確認するのに適切な人物が助産師Sさんです。いろいろと事情がこみあっていて、当院で診ていけるかな?というとき、Sさんのお墨付きがあると順調に事が運びます。OKが出ればレッツゴー、ダメなら他院へ紹介します。
そのSさんに「『坊ちゃん』を読んだことあるかい?」と訊いたら、「はじめの方をチョコッと読んだだけです」とのこと。こんなことでは「清がアガペーの愛の代表例だ」、と言えるがどうか不安を覚えましたが、まっ、いいかということにします。
『坊ちゃん』はそれほど長い小説ではないので2時間ほどで読めます。歯切れの良い文章で、よくも口語体が確立したばかりの時代に、こんな文が書けたものだと感心します。とくにエンディングがいい。私は2回に1回くらいは涙が出てきます。
生物学的に考えるに、エロスは生殖細胞を擁する卵巣や精巣による本能的な行動です。それに対してアガペーは卵巣や精巣を擁する本体、すなわち大脳皮質前頭前野が支配しています。アガペーは理想を追求するので、一見、崇高ですが、インパクトはエロスに劣ります。一言で言えば、エロスはムラムラ、アガペーはシミジミです。
若いカップルはムラムラ+シミジミで子どもを作り、平和な家庭を築きます。老後はシミジミと仲良し夫婦でいてほしいものです。
アガペーの土台となる大脳皮質前頭前野はヒトをヒトたらしめる重要な部位ですが、成熟するには時間がかかり、老化が始まれば真っ先に衰えるというヤッカイな面があります。老後はシミジミだなんて言いましたが、抑制が効かなくなると、いわゆる色ボケというみっともない現象の原因となります。トンチで有名な一休和尚も、80歳近くになって生涯唯一の女性に出会いますが、精力だかボケだか今一つ不明です。