佐野理事長ブログ カーブ

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第604回 忙酔敬語 理系で愛について考える

 東京大学教授・市橋伯一先生のご専門は進化合成生物学です。『増えるものたちの進化生物学』(ちくまプリマー新書)の目次をみると哲学の本?と思ってしまいます。

 

 第Ⅰ章 なぜ生きているのか

     ・・・そもそもの始まりと進化の原理

 第Ⅱ章 なぜ死にたくないのか

     ・・・命がとにかく大事な私たち

 第Ⅲ章 なぜ他人が気になるのか

     ・・・やさしくなければ生きていけない

 第Ⅳ章 なぜ性があるのか

     ・・・子孫を残したいという「時代遅れ」の本能

 第Ⅴ章 何のために生まれてきたのか

     ・・・人間として生きていることの価値とは

 最近、私は診療において(産婦人科・心身症など)生態学や進化生物の観点から考えるようになりました。『増えるものたちの進化生物学』には、私の疑問に対するほとんどすべての回答が書いてありました。ですから、もうこれ以上は勉強する必要はないな、思ったほどです。一見、取っつきづらいテーマですが、語り口はやさしく、しかも分かりやすく書いてあります。さらに市橋先生は基本的に楽観主義者で、こういった類いの本が、「自分たちの行っていることは間違いだ、こんなことをしていたら将来、大変なことになるぞ!」みたいに警鐘を鳴らしているのに対して、「大丈夫、何とかなりますよ」的な明るい未来の可能性について、科学的な根拠を提示しながら述べています。ページ数は180たらずで値段は税金込みで880円。買って損はありません。

 「第Ⅱ章 なぜ死にたくないのか」では、私たちの中には2種類の命がある、と解説しています。すなわち普通の感覚としてある「個体」の命と、子孫へ受け継がれていく「生殖細胞」があり、市橋先生は生殖細胞のほうが生物としての本体だと考えています。

 ここで思い出したのが、みうらじゅん著『正しい保健体育』です。中学生の男子向けの本で、「男の本体はキンタマで、男はキンタマがぬいぐるみを被ったようなようなもの」という、世間の親がドキッとするような衝撃的な言葉で始まります。そして「このキンタマのあつかいで皆さんはいろいろ悩み苦しんでいる」と述べています。市橋先生の見解は期せずして20年前に書かれたこの名著の裏づけとなりました。本体の「生殖細胞」を存続させるために、「個体」は自分が死なないようにアレコレ悩むのです。身も蓋もないようですが、これが自己愛の科学的な根拠です。

 1万年前に農業が始まってから格差社会が生まれて人類は不幸になった、と言う学者がいますが、市橋先生はそんな不景気なことは言いません。第Ⅲ章では、様々な専門職が登場したおかげで、協力や共感といった感情が生じた、と論じています。その共感や生物に対する愛情は将来ますます深まり、蛋白質を合成する技術によって肉食は減り、二酸化炭素放出の問題も解決するはずである。どうです?未来が明るくなりましたね。