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第569回 忙酔敬語 池波正太郎さんのこと

 ふつう、作家が死去している場合は、夏目漱石だとか太宰治だとか呼び捨てにするものですが、池波さんは私の父よりやや下の世代で、同じ空気を吸っていたはずなので、「さん」づけにしないと例を失するような気がして、池波さんと書きます。

 池波さんは、江戸時代の雰囲気を色濃く残していた東京の下町の良さを存分に味わって育ってきたので、時代小説を書くのにこれほど適した作家は少ないでしょう。学歴は小学校卒で、遊んでいても成績はオール甲(オール5と同じ)。さらなる高学歴も望めたはずでしたが、いろいろな事情で大人の世界に入って社会人として成長しました。これも小説の肥やしになったようです。

 生真面目で、作家になってからも締切はきっちり守り、おどろいたことに年賀状は8月頃からコツコツと書き始めました。もちろんすべて手書きです。夜型人間なのでお酒は昼過ぎに日本酒で2合くらいで、度を過ごすことはなく、確実に仕事をこなしていきました。

『剣客商売』、『鬼平犯科帳』などの読切り短編が人気ですが、作家で評論家の丸谷才一さんは長編が良いと言っていました。丸谷さんが最高傑作と評している『雲霧仁左衛門』はHNKがドラマ化しています。さらに雄大なのが『真田太平記』ですが、女忍者お江とその敵の忍者が下半身関係の問題を抱えているため大河ドラマには向かないでしょう。

 食通としても知られ、小説の中でも小鍋をつつく場面が人気ですが、数々の食に関するエッセイも書いています。しかしお高くとまった味ではなく、銀座・煉瓦邸で、おすすめのトンカツを食べたことがありますが、正直言って札幌の玉藤の方が美味い、と私は思っています。また、トンカツは家では絶対にできないと断言しておられましたが、うちの家内はそれなりのトンカツを揚げてくれます。店全体の客を大切にする雰囲気を評価の対象にしているようです。その点はフランスのミシュランと同じです。

 男の作法として、『剣客商売』の爺さん剣客のように、必ず心づけ(チップ)をタップリとはずむべきだと書いてあるのを真に受けて、タクシーに乗ったとき「つりは取っといて」と気ばったことがありましたが、かえってスルーした雰囲気となったため数か月でやめました。慣れないことはするものではありません。

 私の場合はまだ軽傷です。爺さん剣客が孫のような女房おはるに小舟を漕がせる場面を読んで、「いいなあ、実にどうも、たまらんなあ・・・」と、愛読者の老人が、どこかのキャバレーの若いホステスをわがものとし、これを〔おはる〕と名づけ、小舟ならぬ自家用車を運転させ、悦に入っていたところ、正夫人の発見するところとなり、さんざんに、あぶらを搾られ、知人に言いました。「池波さんの小説には、ひどい目にあった」 

 最近、中央文庫から出版された『チキンライスと旅の空』で印象に残った部分。

〈むかしの京の女たちは、年に一度の顔見せ芝居を見るのを唯一のたのしみとして、その年のはじめから、つつましやかに貯金をするのだという。そうした女の、いじらしいところは、もはや、あまりにも古めかしくなってしまったにちがいない。そのかわり、現代の女も男も、ほんとうの〔たのしみごころ〕を味わう術をうしなってしまった。あるものは、どこまで行っても尽きることのない〔不満ごころ〕のみの日本になってしまった〉

 いえいえ、私はまだ大丈夫ですよ。屯田の回りの風景の移り変わりを見て、十分に満足しています。そして、いずれ来るであろう大変動にも腹をくくっています。