日本語は実に冗漫です。ひらがなやカタカナだけで表記したら、ちょっと見ただけでは何が書いているのかサッパリ分かりません。その点、中国語は原則として単語一つが漢字一つに相応するので、地下鉄や空港での案内を見ても簡潔です。
しゃべり言葉も冗漫です。以下、お孫さんの世話でいかに大変な思いをしたかお話しされた女性とのやり取りです。
「3歳前の孫娘と一緒に、あそこ、それ、あそこに行ったら大変な目にあいました」
どうもビュッフェスタイルのレストランらしいのですが、それが判明するまで3分ほどかかりました。
「料理を取りに行ったら、チョロチョロしそうなので、あそこ、あれ、子供がすわる椅子にすわらせて、何がいいかなあ、って選んでいたら、すぐ横に孫娘がニコニコしながら立っていたんでビックリしました。椅子のすき間から出て来たらしいんです。体が軟らかく運動神経が良いんでアッという間の出来事でした。まったく目がはなせませんでした」
これも、こちらが何度か確認したので全容がつかめました。5分以上かかりました。
イライラしながら聞いていた私は言いました。
「それ、五七五で言えますよ」
相手は何のことか分からずポカン。
「孫娘、小椅子をくぐりて横に立ち」
お互いに状況を共有しているという前提が必要ですが、うまくまとまったでしょ。
このように俳句・川柳は冗漫な日本語を簡潔にまとめた表現法です。『プレバト』大好き人間の私は、この夏から出勤時に俳句を一句か二句詠んでいます。
雨上がり色づきはじめたナナカマド
花散るもムクゲの蕾はいまだあり
遅咲きのコスモス今が盛りなり
ナナカマド赤き実れる道を行き
秋の朝アサガオまだ咲く青と赤
俳句は『プレバト』みたいにテーマが決まっていて、タレントさん達が競い合えば盛り上がります。単発の句は芭蕉や蕪村のような天才なら強いインパクトを受けますが、私のような素人ではうすくなります。また五七五から逸脱するいわゆる破調は、よほどアッというような内容でなければダメです。五七五のリズムが魔法を生み出すのです。俳句ではありませんが、筒井康隆さんが歌人の俵万智さん著『サラダ記念日』をパロッた『カラダ記念日』で、五七五七七の短歌自体をパロっていました。
一二三、四五六七、八九十、十一十二、十三十四
五七五をたしなんでいると、ふだんの文章もよけいな言葉がそぎ落とされて締まった日本語になるような気がしますが皆さんお気づきでしょうか? やっぱりダメか・・・。