朝日新聞『折々のことば』に掲載された平川克美『共有地をつくる』から。
何で「明るい未来」ではなく「アカルイミライ」なのか? おそらく2003年公開の映画、黒沢清監督『アカルイミライ』のパクリだと思います。主演はオダギリジョーさんです。私は予告編しか観たことがありませんが、あまり明るい映画ではなさそうでした。
平川さんは実業家・文筆家で独特の人生観を持っています。これまでの人生で「いちばんつまらなく退屈だったのは、会社がいちばんうまく回っていて金回りがよかったとき」だそうです。
「だから一刻も早くその退屈から逃れるために、会社を他人に譲ってしまった」
平川さんは私より少し上の年代、いわゆる団塊の世代です。ワクワクする何かがないと生きているという実感が湧きません。団塊の世代と妙にウマが合い、いろいろお世話になった私には何となく分かります。私も退屈が苦手です。
私にとって人生で一番充実していた時期の一つは、医師になって7年目のとき3年目の後輩Y君(今ではある町立病院の院長です)と2人で北見赤十字病院に赴任した1年間です。月に4日間ほど大学から講師クラスの医師が応援に来ましたが原則2人態勢でした。
当時の北見日赤の分娩数は月80人くらいで、当時としては普通でしたが基幹病院なので内容が濃かった。癌以外の婦人科の手術も2人でやっていました。手術中、お産が2つあり、その度にY君が手をおろし、そして再開なんてこともありました。日曜日の夕方から月曜日の朝まで3回緊急帝王切開があり、「やれやれ、これからまた忙しいⅠ週間が始まるのか・・・」と白々とした朝日を見ながらため息をついたこともあったっけ。
そんなに忙しかったのに2人とも酒好きで、夜はたいてい酔っ払っていました。当時、北見は景気が良く、金の匂いに引かれてヤクザが集まりました。そしてヤクザどうしの発砲事件が起きて死者が出ました。夜の街に機動隊がこんな田舎にも来るのかと言うほど集結しました。2人はその機動隊のジュラルミンの盾をかいくぐって飲み歩きました。
北見に赴任したときツマは妊娠していて真夏に長女を出産。当時から陣痛が発来したときは分娩監視装置を装着することになっていましたが、ツマより先に3名ほどの産婦さんがいたので何もしないままにお産となりました。退院後、乳腺炎のために熱でウンウンうなって苦しみましたが体温計もなし、私は酔っ払って高いびき、ヒドイ夫でした。
年が明けた1月の下旬、卵巣癌の患者さんが再発をくり返したあげく、5階の病棟から飛び降り自殺をしました。私が医師になって1年目に大学病院で腹水を抜いていた患者さんで、北見に戻ってから奇跡的に自然回復しました。泣きながら遺体を抱き上げて院内に運び入れました。悲しいほど軽い体でした。まだ緩和ケアが確立していない時代でした。
日赤の看護スタッフは優秀で、とくに3人の新人助産師たちは明るくて可愛かった。コワイ先輩たちの中でも萎縮することもなく、よそ者の私たちを支えてくれました。
あれから36年、おかげさまで今は平穏な日々を送っています。平成8年に当院に来てからもいろいろありましたが、まだ時効になっていないのでこれ以上は書きません。いろいろあったときは命が燃えていました。でもこれ以上燃えるのはヤメとします。