佐野理事長ブログ カーブ

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第527回 忙酔敬語 パンドラの箱と希望

 患者さんが途方にくれて泣いているとき、私はたとえ話をすることがあります。先人の言葉はけっこう効きます。

 37歳の女性が、妊娠初期の超音波検査で流産していることが判明しました。お産の経験はありますが、その後、いろいろあって今回の妊娠に望みをかけていました。

 「この年で流産ですか・・・、もう子供は生めませんね・・・」(涙)

 「大丈夫、当院では46歳で無事にお産をした人が2人、40歳代で4、5人産んでいる人はザラですよ。40歳以上じゃなきゃ高齢者あつかいはしていません(本当は私だけの見解です)」 

 「・・・・・・」

 「パンドラの箱って聞いたことがありますか?」

 「開けたらダメだっていうのに開けてしまったという箱の話ですね」

 「よくご存じで。開けたらどうなったでしょうか?」

 「とにかく大変なことになったんですよね」

 「そう、あらゆる災いが飛び出してきたんです。その後どうなったでしょうか?」

 「まだ何かあるんですか?」

 ギリシャ神話の最高神ゼウスは、人間がプロメテウスの盗んだ火を使ってあまりにも酷いことをするのに腹を立て、パンドラという女性に「絶対に開けてはいけないよ」と言って箱を持たせます。浦島太郎の玉手箱、鶴の恩返しの「見てはいけません」と同様、やっぱりパンドラは箱を開けます。すると中から、疫病、犯罪、悲しみなど、ありとあらゆる災いが飛び出し、世の中はヒッチャカメッチャカになりました。パンドラは大変なことをしてしまったと泣きながら蓋を閉めます。すると箱の中から「お願い、パンドラ。僕を出して」という声が聞こえました。声の感じは良いし、いまさら閉じ込めっぱなしでもこれ以上は悪くならないだろうと再び箱を開けると、そこには「希望」がありました。

 古代ギリシャの詩人ヘシオドスの『労働と日々』に出てくる寓話です。本当の神様はけっこう残酷で、「希望」なんてサービスはしないものですが、そこは人格者のヘシオドス、教訓のために「希望」を登場させました。

 私は人格者ではないので、自分の説も説明したかったのですが、泣いていた患者さんは目を輝かせて「わたし、また頑張って良いんですね?」と言うので「ハイ」と頷いただけにとどめました。このブログを読んで「ヒドイ!」と怒らなければよいのですが・・・。

 「希望」抜きのパンドラの箱はけっこう知れわたっています。たとえば心療内科の患者さんが色々ワケありそうなので、心理のおネエさんに「そのあたりを確認してみようか?」と提案すると、「先生、今はそんなパンドラの箱を開けるようなことはよしましょうよ」と言われることがあります。かように私は自分が納得しないとダメなタチで(パンドラの箱開けタイプ)、ただ薬の処方だけのため受診した患者さんに質問しました(その日、主治医はいませんでした)。「どうしてこんな薬を飲んでいるんですか?」

 長年、この薬を飲んでいた患者さんはビックリしたようで、ムッとして「答えないといけないんですか?」。診療の雰囲気が悪くなりました。その後すぐに「希望」を持たせてあげれば良かったのに、そんな間もなく帰られたのが残念です。