院長ブログ カーブ

Close

第444回 忙酔敬語 つながりたくない

 不安を抱えた若い女性が母親に連れられて受診しました。その手にはしっかりとスマホが握りしめられていました。私は訊ねました。

 「それがないとダメなの?」

 お母さんはポカンとしてはじめて気づいたようでしたが、女性はコックリうなずきました。誰かとつながっていないと不安なんでしょう。

 はっきり言うとこうゆうつながり方はキライです。

 私は基本的に人とはつながりたくないタチですが、あえてつながるとしたら直接会うのを選びます。相手の表情や声の調子が分かるので誤解が少ない。2番目が設置型電話。ケータイは音質が悪くて良く聞き取れないことがある。どっちにせよ電話では表情が読み取れないので、たとえばナースステーションから電話が来たら階段を上下してでも直接スタッフに顔を合わすようにしています。それにしてもウチの連中は階段がキライでよく電話するなあ・・・。メールやラインは情感が伝わらず、誤解が誤解を呼び、炎上を起こすことがあります。メールのイヤなところは証拠として残り、場合によっては自分が発信したことがアチコチにばらまかれ、収拾がつかない結果をまねくことです。口頭だと語尾をにごしたりして曖昧さを保てます。人生、曖昧でいるということも無難に生きるコツです。

 番外編として手紙(葉書を含む)があります。今どき手紙なんて流行りませんが、漱石など一流作家の手紙ともなると文学的な価値があり全集に収められます。私もお気に入りの葉書をもらったら大切に保存しています。史上最高峰の手紙は中国の唐の詩でしょう。当時は散文で自分の心情を表現するのには限界があるとして、新しい形式の詩が完成されました。あまたの詩人のなかで杜甫と李白が双璧といわれています。その時代よりやや遅れて我らが日本でも『万葉集』が編纂され、熱い思いの和歌が多数掲載されました。

 フェイスブックを利用すると、24時間以内に会いたくても会えなかった人に再会できて感激!なんて話もありますが、会わない方がマシだったという可能性もあるしオレはイヤだな、と思ったことでした。もちろんフェイスブックには加入していません。

 「新コロナで老人が孤独死」という新聞記事を見ましたが、孤独死ってそんなに悲惨なことでしょうか? 斎藤茂吉の有名な歌に「みちのくの母の命を一目見ん一目見んとぞただに急げる」というのがありますが、死ぬ寸前になると意識も途絶えて何がなんやら分からなくなります。死に目に会ったってどうしようもないのになあ・・・。茂吉は医師でしたからそんなことは分かっていたはずです。カッコイイ歌集を作るために「死にたまふ母」なる連作を『アララギ』や『赤光』に掲載したのではと邪推しています。

 では「お前のブログは何なんだ?」と疑問に思われるでしょうが、私のブログはもっぱら発信のみで、読者の反応にはタッチしていません。もちろん別ルートで「この前のブログは良かった」という感想が送られて来ることがあり、それはそれで嬉しいのですが、悪口にはいっさい耳をふさいでいます。

 私のおつき合いはかなり限られていますが、べつに寂しいとは思っていません。片道3.5㎞の通勤の行き帰りに、道ばたに生えている草花や鳥のさえずりなどで自然とつながっているな、と実感しています。最近は鳥の鳴き声を聞くと、警戒しているのか発情しているのか分かるようになりました。人とつながっているよりも充実している日々です。