佐野理事長ブログ カーブ

Close

第387回 忙酔敬語 思い出ぶらぶら

 姪っ子の結婚式のため東京に行きました。式は6月1日(土)でしたが、家内が着物の準備をするために前日に出発。洋装の私は別に急いで行く必要もないのですが1人だとはぐれるのがコワイので同時に出発しました。

 昼前に着きましたが、さて何もすることがありません。そこでふと思いついたのが思い出探しでした。私は小樽生まれですが小学生になる半年前に父の転勤で東京都中野区鷺宮5丁目343番地に引っ越しました。それから60年たっているので地名は変わっています。西武池袋線の富士見台を降りて10分もかからない所でした。小学校も自宅から歩いて5分の中野区立武蔵台小学校。途中に校庭に5,6本の林のある都立武蔵丘高校があり、帰りはそこの裏門から校庭を横切って正門に出て帰宅したものです。

 ちょうど東京タワーが完成したときで、1年目の遠足について絵を描かされたところ、私も含めてほとんどの児童が東京タワーだけの絵を描いていました。あたりは住宅地と野菜畑、茶畑、陸稲畑が入り交じっていて、家の前の道路もまだ砂利道でした。空き地もあり、そこでゴムボールと素手で野球をしました。まさに「ドラえもん」と「三丁目の夕日」の世界で東京が一番光り輝いていた時期でした。昭和38年の秋、東京オリンピックから逃れるように父の転勤で小樽にもどりました。

 今から考えると贅沢なもので、家は庭つきの平屋で、正門(お葬式以外につかうことはなし)、正門の横のふだん使いの出入り口、お勝手口つきの一軒家でした。屋根は瓦でちょっとした高級住宅街でした。どうも父はエリートサラリーマンだったようです。時代は高度成長時代。それでも父は朝ご飯をきちんと取って家を出て、夜7時には帰宅しました。『わたし、定時で帰ります。』とほとんど同じ。要領が良かったんでしょう。でもストレスを解消するために仕事が終えると1人で映画館で気晴らしをすることもありました。休日は庭いじりをして家族で映画館に行ったことはほとんどありません。映画館通いは時間とお金の無駄と判断した父は早々に14インチのテレビを購入しました。アメリカホームドラマの全盛時代でした。『ママは世界一』、『パパは何でも知っている』ででっかい冷蔵庫などを見て「アメリカはすごいや」と素直に感心しました。同世代の子供が熱中した『月光仮面』は父の好みにあわないので見られませんでしたが、実写版の『鉄腕アトム』はOKでした。原作者の手塚治虫が激怒したほどヒドイ出来だったそうですが私は着ぐるみのカニ男との闘いなどに興奮しました。後にアニメ化されましたが、コマ割りをケチって口パクだけのシーンが多く、実写版を懐かしく思ったことでした。テーマソングも「ぼーくは無敵だぁ、鉄腕アトムー・・・」の方がアニメの「空をこえてラララ星のかなた・・・」よりも迫力があって好きでした。アニメが何で騒がれたのかサッパリ分かりません。庭には芝生が張っていて、その回りに花や小鳥にやる小松菜などを植えていました。私はイヤイヤながら草取りをさせられました。几帳面な父は根から引っこ抜かないといちいちモンクをたれました。庭つきの家なんて大人になったら住まないぞ、と誓いました。

 さて現在の鷺宮。まだ高層マンションはなく、さすがに2階建てでしたが庭つきの家並みは健在でした。ただし畑はなくなり空き地ももちろんなし。それでも当時よく利用したそば処「長岡屋」はまだ営業していました。川崎事件から間もなく校舎のまわりをうろついたら怪しまれるなと思いましたが校門は要塞化されていて心配ご無用でした。