佐野理事長ブログ カーブ

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第96回 忙酔敬語 たかが”むくみ”、されど”むくみ”

最近、妊娠中毒症という病名が、妊娠強血圧症候群もしくは妊娠高血圧腎症という病名に変わりました。妊娠中毒症は妊婦さんの血圧が上がり、蛋白尿が出て、体が”むくむ”症状をさしていました。長年この病名で馴染んできましたが、”むくみ”は五人に一人の妊婦さんに現れるので、別に病気としてあつかわなくてもいいんじゃないかと、新しい診断名では”むくみ”は除外されました。
しかし、私は、この妊娠高血圧症候群、妊娠高血圧腎症という病名に今一つ納得できません。だいたい、患者さんに説明するときには舌を噛みそうになるし、診断書を書くときも字数が増えて面倒です。また、”むくみ”を軽視してしていると思えてなりません。
産婦人科医師になって一年目、市内の病院へ妊婦健診の手伝いに行かされることなりました。当時は、まだ婦人科の研修中で産科は次年度ということになっていました。先輩の先生に「自分は”むくみ”の妊婦さんに利尿剤を処方するぐらいしか出来ない」と不安を訴えたところ、「なーに、それだけ知っていれば十分だ」と、これまた今思えばかなりいいかげんなハゲマシを受けました。今では妊婦さんに利尿剤を処方するのは、お腹の赤ちゃんに悪影響をおよぼすのでイケナイこととなっています。
もともと私は産科志望でした。入局二年目にしてはれて産科の研修をすることとなりました。いわゆる妊娠中毒症重症の患者さんが入院していました。血圧はもちろん高めで、蛋白尿も顕著です。それにも増して”むくみ”が全身に見られました。ある日、その妊婦さんが「目が良く見えない」と言い出しました。眼科へ紹介したところ、眼底の”むくみ”のために網膜が剥がれたためと診断されました。ふつう網膜剥離は手術で治療しますが、このお母さんは産後(帝王切開でした)に”むくみ”が改善するとともに目も見えるようになりました。”むくみ”恐るべしです。その他、”むくみ”で肺に水がたまって呼吸不全になったりすることもあります。また、妊娠中毒症の特殊な状態として、「子癇」という痙攣発作があります。こうなると母児とも危険な状態で緊急帝王切開をしなければなりません。病態は脳の”むくみ”にあるとされています。
以上のように”むくみ”はけっしてあなどってはいけません。ですから妊娠中毒症という病名が忘れられないのです。今でも大学病院の産科の指導的立場のある先生が、周産期の勉強会で、居直ったように「妊娠中毒症」と言っていました。彼も私と同じ思いなのかも知れません。今度会ったら確かめようと思っています。
妊娠中の”むくみ”は妊娠中毒症のなごりで、現在も臨床の場では警戒されていますが、産後の”むくみ”はどういうわけか問題にされることはありません。実際には産後に”むくみ”を訴えるお母さんの方がけっこう多いようです。何もしなくても十日もたてば自然に治りますが、場合によっては利尿剤を処方します。妊娠中と違って、もう、赤ちゃんはお腹の外なので心配はありません。
”むくみ”で一番コワイのは、周産期心筋症という病気です。心不全のため急激に”むくみ”がひどくなり、体重が週に1,2㎏以上も増加します。お母さんも息苦しくなり寝ていることもままならなくなります。当院でも2例しか経験したことのないマレな病気ですが、命にかかわるので早急に総合病院での治療が必要となります。
本当に、たかが”むくみ”、されど”むくみ”です。