佐野理事長ブログ カーブ

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第6回 忙酔敬語 今、ここで

東日本大震災から1年たちました。阪神淡路大震災のときにも考えたのですが、それまで進学など将来のために一生懸命生きていた人たちのそれまでの人生ってなんだったんでしょう。不条理な死ですべてが無駄になったんでしょうか? そうは思いたくありません。実直に頑張っていたということ自体に価値があったんだと私は信じています。
東日本大震災で最期まで市民を誘導をしていた市の若い女性職員の姿は、まさに輝いていました。おそらく誰も彼女のことを忘れることはないでしょう。
ちょっと話が飛躍しますが、オリンピックで金メダルを取るために頑張っている「なでしこジャパン」の活躍は私たちに元気を与えてくれます。もし、彼女たちの誰かがけがなどで出場できなくなったとしたら、それまでの彼女の努力は無駄だったのでしょうか?  人生の目標を持つことは、「今、ここで」輝いて生きるための単なる手段にすぎないと考えています。
「今、ここで」充実して生きるということは、「どうせ明日のことは分からないから」と刹那的に生きることとは違います。私の同世代の村上龍氏の強烈なデビュー作「限りなき透明に近いブルー」を読んだとき、主人公たちの濃い生き方に衝撃を受けましたが、読後感には空しさがただよいました。
5,6年前のことですが、「思春期研究会」をいう勉強会で、若者の性がテーマになったことがありました。参加者の一人が「毎晩のようにパートナーをかえてセックスをする女性がいますが、彼女の生き方はどうなんでしょう」と疑問を投げかけました。私は手を上げて「おそらくその娘は(心が)病んでいるのだと思います」と発言しました。とっさに頭に浮かんだことで、何の裏付けもなく確固たる自信はありませんでした。そのとき背の高くて若い女性が「実は私も病んでいました」とカミングアウトしました。「しかし、今は立ち直り充実した日々を送っています」と話を終えました。確かに彼女は輝いていて、すさんだ過去を持っているとは信じられませんでした。私はあまりのタイミングの良さに驚くとともに、会を盛り上げてくれた(盛り上がったのは私だけかもしれませんが)彼女の勇気に感謝しました。
何か目的をもって生きるということで、人は充実した日々を送ることができます。目的は、別にオリンピックに出場するとかノーベル賞を取るとかといった大それたことでなくてもいいのです。お産の準備をするとか今夜の料理は何をしようとか、日常の小さなことでいいのです。そして常に100%の力を発揮して生きる必要はありません。毎日100%で生きていると燃え尽きてしまいます。何事も程々で、7割りくらいの生き方で十分ではないかと、本来怠け者で、コツコツと勉強するのが苦手な私は考えています。