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第56回 忙酔敬語  心身一如と主格一体

しばらくユルイお話が続いたのでここでちょっと真面目な話題です。
心身症の患者さんはもちろんのこと、すべての患者さんに対しては身体症状と心の問題は切り離さず、「心身一如」として診療するのが医療者としての鉄則です。日本の心療内科のパイオニアである九大心療内科名誉教授の故池見酉裕次郎先生は、常々「東洋医学に学べ」と言われていました。当院の郷久理事長は池見先生の愛弟子で、そのおかげで私も池見先生と直接お話をする機会がありました。「先生は日頃、東洋医学の話題をしますが実際に漢方はされているのですか」とぶしつけな質問をしたことがあります。池見先生は例の博多なまりで「漢方のことは知りましぇん」と意外な返事でした。西洋医学は身体と心は別物としてあつかっていたのに対して東洋医学には「心身一如」という考え方があるので、それを心療内科の極意とされていたのです。さらにいえば「心身一如」は仏教用語であり、池見先生は「禅」も重要視しご自身も実践されていました。私にも「心身一如」の考えは身についており(つもり?)、あるときは産婦人科医、あるときは心療内科医と変身するのではなく、いつも患者さんの心身両面を見ながら診療しています。ですから患者さんに「今日は心療内科の相談で来ました」と言われると、患者さんも体と心は別物と考えているんだなとちょっと滑稽な感じがします。ご免なさいね。
つぎは「主格一体」。これは『心身医学 通巻第403号』の巻頭言に掲載されていた福島一成先生(藤枝市立総合病院)のお話です。
”慢性化し、遷延化している症例に遭遇することは、珍しいことではありません。「それでもその閉塞状態を何とかしたい」と思ったときに、残されたの医療資源は何であるのか、それは医療者自身の人間的な力であり、医療者(主体)と患者(客体)を切り離さず、「主客一体」ととらえる眼差しではないかと思うのです。一例を挙げると、10数年前に遭遇した20代の女性のケースもそうでした。自殺未遂は数知れず、数年の間入退院をくり返していました。薬物療法、修正電気けいれん療法、母親と一緒に入院してもらっての再養育療法、箱庭療法などを行いましたが、希死念慮と過食症状はまったく改善しません。母親は疲弊し、「お腹を刺すこと(自傷)を考えるとワクワクする」という患者。悲惨ともいえる状況の中で、「仕方がない」と、その状況と自分を切り離し、まるで遠い世界で起こっている事態として眺めている自分、そうした自分の眼差しがこのような事態を招いているのではないか、と感じられました。「何とかしなければ」と思いながら、患者さんの元を訪れ、話をしていると、「今まで何年も、長い時間、先生と話してきたけど、いつも言葉が頭の上をスースーと通り過ぎていくだけだった。だけど今日、初めて先生の言葉が心の中に入ってくる」と泣き崩れました。このような感情表出は初めてでした。”
その後、患者さんの様態は急激に改善したそうです。
終末期医療(緩和医療)の研究会で、「治療の手段がなくなったときは自分自身を持っていく」と発表された先生がいました(でもその先生は指圧が得意だとも言っていました)。また、心身医学の研究会でもときおり「治療的自己」についての話題が取り上げられています。
なんだか難しい言い方をしてきましたが、簡単に言えば「思いやり」ではないでしょうか。常に患者さんの目線に立った医療を心掛けねばならないなとあらためて思いました。