院長ブログ カーブ

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第38回 忙酔敬語 イワンの馬鹿

先月、新聞広告に法橋和彦著『古典として読むイワンの馬鹿』(未知谷、3000円+税)が載っているのを見て、さっそく紀伊國屋に行って買い求めたところ、まだ入荷していないが夕方に一冊だけ入荷される予定だというので予約をしておきました。その日は学術講演会があったので、終了後に紀伊國屋に行ったらちょうど入荷したばかりで手に入れることができました。なぜこんな事に情熱を注ぐかというと、『イワンの馬鹿』は私の愛読書の一つで、患者さんにも勧めることがあるからです。
誰でも名前だけは知っていると思いますが、『イワンの馬鹿』はトルストイの書いた民話です。くわしい題名は『イワンの馬鹿とそのふたりの兄たち、軍人のセミヨンと太鼓腹のタラス、そして唖の姉娘マラーニア、ならびに悪魔の頭領と三匹の小悪魔がでてくるはなし』です。三人の兄弟がどんなことがあっても争いをしないのに業を煮やした悪魔が、色々な事を仕掛けるのですが、「馬鹿なイワン」のため、ことごとく失敗におわります。『イワンの馬鹿』は、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の最後の「ソウイウ者ニ私ハナリタイ」を具現化したような物語です。つまり「ソウユウ者」がイワンです。私は『雨ニモマケズ』も好きなので、原文のコピーを当院の3階のエレベーターの向の壁に掛けています。
『古典として読むイワンの馬鹿』は326ページのうち、本編がたったの63ページで、他は訳注や解説などでなかりマニアックな本です。一番確かめたかったのは、19世紀末に書かれた民話に、20世紀初頭の第1次世界大戦を予告するような総力戦の模様や、さらには第2次世界大戦に行われた空軍による爆撃のシーンが出てくることです。「‥‥‥インド王はセミヨン軍の弾丸が自国の射程圏内に届くことを許さず、ただちに女性部隊を派遣してセミヨン軍に爆弾を投下させました。彼女たちはセミヨン軍に、硼砂をゴキブリに撒くように、空から爆弾をばらまきはじめました。セミヨンの全軍勢はひとたまりもありません。ちりぢりに逃げだし、ひとりセミヨン王だけがとり残されました。‥‥‥」。法橋先生もこれには驚いたようで、解説の始めにこのことを話題に取り上げています。それによると、トルストイは実際の飛行機を想像したわけではなく、シベリアに伝わる民話の空飛ぶ仙術(ないし妖術)をイメージしたようです。それにしてもトルストイの魔法民話的な発想とはいえ実学的預言能力は超人的です。
さて、最近、ある患者さんに例のごとく『イワンの馬鹿』を紹介しました。しかし、重大な問題に気づき、「ちょっと無理だったね」とお詫びしました。その患者さんの神経はとても繊細で、『イワンの馬鹿』を受けつけられる状態ではありませんでした。イワンの底力はその並外れた体力と鈍感力にあります。小悪魔が水差しに唾を入れて腹痛を起こさせたり、農作業の邪魔をしたりしても、びくともしないで畑を耕したり、刈り入れをやり遂げます。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に続く言葉も「風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ」となっています。「健全な精神は健全な肉体に宿る」といいますが、イワンの肉体はけた外れです。自分の好みを他の人に押しつけるのは良くないなとあらためて反省したしだいです。