佐野理事長ブログ カーブ

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第631回 忙酔敬語 世界を初めて見るかのような

 「わたし、今年で50歳になります。去年の夏から生理はなく、もう更年期だと思うんですけど、これからどうやって生きていけばよいのか分かりません」

 「新聞はとっていますか?」

 「はい、讀賣です」

 「それは良かった。今日の『人生案内』は読みましたか?」

 「はい、読みましたけど・・・」

 15歳の女子学生が相談者です。

 いろいろ心配性の子で、過去を悔い、未来に不安を抱える15歳でした。答えるのは哲学者の小川仁志先生。

 〈不思議なことに、なぜか私たちは現在という時間に目を向けようとしません。つまり今です。もし今に集中して生きることができれば、過去や未来など気にならなくなるにもかかわらず。

 では、どうすれば今に集中できるのか。この点フランスの哲学者ピエール・アドは、「世界を初めて見るかのような、そして最後に見るかのような気持ちで生きること」を勧めています。そうすれば今経験していることに感動し、感謝することができるからです〉

 実はこの方法、べつに目新しいことではなく、心理の世界では、エリック・バーンやアドラーの「今ここで」とか、マインドフルネスの「今感じていることに集中せよ」とかで知られています。もっと古くは茶道の極意である「一期一会」があります。

 ただし、相手が15歳の女の子ですからもっと具体的な「世界を初めて見るかのような」の方が、おしゃれでピンと来ますね。

 未来に不安をいだいて生きる動物は人間だけです。人間は1万年前に農業を発見してから、いつ種をまけばよいのか、雨は降るだろうか、いつ収穫すればよいか、などと悩むようになりました。純粋な狩猟民族では相手が自然なのでなりゆきにまかせるしかなく、したがって未来に不安を抱くことはなかったようです。

 半世紀以上も前にカナダ・エスキモーを取材した本多勝一さんは、計画性のないエスキモーの人たちに必要なのは英語教育ではなく、「今ある食料がなくなるのはいつか?という簡単な算数で、このままだといつ飢えに襲われるか分からないだろう」と、本気で心配していました。しかしながら、なまじ、計算なんかしない方が幸せではないか、と今の私は考えています。計算しても計算どおりに獲物が手に入るわけではありません。

 よけいなことを心配する人を「杞憂」と古代中国の哲学者はウマイことを言いました。これも農耕文化の副産物です。

 この日は時間があったので、こんなことを取り止めもなく話しました。

 「そこまで気づきませんでした。よく分かりました」

 患者さんは笑顔で帰られました。

 私はテレビ東京系の『ヤギと大悟』の大ファンです。大悟さんのトークもさることながら、ひたすら草を食べているヤギのポポと子ヤギのモロコシが愛おしくてたまりません。雑草は栄養価が低いので、草は大量に胃袋へ詰め込められてお腹はパンパンにふくれます。あとは腸内細菌にお任せ。将来の心配なんかしている様子は微塵もありません。