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第594回 忙酔敬語 ちょい悪ワルツ

 ロシア出身のピアニスト、イリーナ・メジェーエワさんは著書『ショパンの名曲』で、おすすめの演奏家として20世紀前半に活躍した名ピアニストを中心に紹介しています。なかでもコルトーの名が頻回に出てきます。いわく「ポエジーが豊か」なんだそうです。「わたしもいつかこんな演奏ができるようになりたい」とまで言っています。

 なんせ90年前の録音なのでレコードも雑音混じりだろうし、イリーナさんの言うのは本当かなあ?と思ってスマホで聞いてみたのですが、これが実に良かった。よくショパンの曲は女性的だと言われますが、コルトーのワルツの演奏は、ピアノというデカイ楽器をまるで抱きかかえるように鳴り響かせていて、ナイーブな面ももちろんありますが、まさに力技。ちょい悪おじさんが「どうだい、楽しんでるかい?」てな具合に、とくに第1番「華麗なる大円舞曲」では終わりに近づくと、いたずらっぽく思わせぶりな間合いとタッチで、実際にステージで見たら観客席に向かってニヤリと笑いかけているのではないか、という印象を受けました。ラテン系のフランス人なので、そのくらいのことはやりかねません。でも教育者としても知られていて、弟子たちの個性を尊重して自分自身のアクの強い演奏は強いていませんでした。

 それに対してユダヤ系ポーランド人のルービンシュタインは実に優雅に演奏します。思い入れもほどほどなので、標準的なお手本とされています。私はルービンシュタインのノクターンやスケルツォを子守唄としていましたが、バラードがあまりにも冗漫なので怒りが込みあげて眠るどころではなくなり、ためしにコルトーのバラードを聴いてみたところ、起伏や変化に富んで、退屈することなしに聞きとおすことができました。コルトーの演奏は強弱の幅が広く、消え入るようなピアニッシモから響きわたるフォルティッシモまで、ビンビンと耳に飛びこんで来ました。曲の速度も自由自在でやりたい放題といった感じです。ただしバラードは難曲なので、巨匠と言えども所々ミスタッチがあります。

 バラードにも飽きてワルツを聞いてみたら、先ほども述べたようにかなりアクの強い演奏なので、ヘキエキしてルービンシュタインの爽やかな演奏にしましたが何だか物足りない。ふたたび我慢してコルトーの演奏を聞き直しているうちに、とうとうハマッてしまいました。ワルツは3拍子でダンスの曲として知られていますが、ショパンの曲はダンスに合わせてくれません。有名な「子犬のワルツ」を思い浮かべれば分かるように、あまりにも速くてとても踊れる雰囲気ではありません。コルトーの「子犬」はふつうの演奏家よりもさらに速く、南米の巨匠アラウが子犬がまどろむ様子を情感タップリに弾いている部分を、あっという間にすっとばして、あれっ、いつまどろんだっけ?てな感じで終了です。「別れのワルツ」も本来ネアカなのか、シミジミとした悲哀が少なくアッサリして子守唄にはピッタリです。

 コルトーの肖像を見ると目がギョロッとして異形の相をしていますが、すまし顔のルービンシュタインよりもマジメだったようです。ルービンシュタインは四十過ぎまで女性を取っかえ引っかえして遊びまくっていましたが、年下のロシア人のホロヴィッツの演奏を聴いて衝撃を受け、心を入れかえて練習に練習を重ねてミスタッチもなくなり完璧になりました。イリーナさんの言うように、コルトー、ルービンシュタイン、ホロヴィッツ、リヒテル、アラウなどが活躍した時代は、いまだにピアニストの黄金期とされています。