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第506回 忙酔敬語 木防已湯

 木防已湯はいわゆる心不全に使用される漢方薬です。1800年前の『金匱要略』に掲載されていますが、当然ながらその時分には心不全という概念はありません。喘息のように呼吸が苦しく、水毒のため体がむくんでいる重症な状態に奏効すると書かれています。その条文を読むと、西洋医学的には鬱血性心不全が浮かび上がりました。漢方が出る幕ではないというワケで現在では一般の医師はめったに使わなくなりました。

 心不全に効く薬として、学生のときジギタリスについて習いました。ジギタリスはヨーロッパ原産で美しい花が咲くことで知られていますが、葉や茎から根まで全草すべて毒といってよいほど危険であることでも有名でした。

 昔、その毒性を利用して有罪か無罪を判定するために、ジギタリスのエキスが使われました。自分が無罪だと確信している人間は自信を持って一気に飲み干します。ジギタリスは急に胃に入ると吐き気をもよおすので、そんな場合は全部吐いてしまうため命に別状はありません。身に覚えのあるヤツは恐がってチビチビ飲むので、毒は完全に身体中に行きわたり心臓が止まってしまいます。バカバカしい与太話ですが、薬理学でも循環器内科の講義でも聴いたので確かだと思います。私は与太話しか覚えていません。

 ただし適量を飲ませると鬱血性心不全に著効するため、18世紀からヨーロッパで心臓の特効薬として使われて現在にいたっています。適量に調整するにはコツがあるため産婦人科医が手軽に利用することはありません。

 その点、木防已湯は、構成生薬が、防已、石膏、桂皮、人参とヤバイ生薬は含まれていないので気軽に使えます。防已と石膏は利水作用があり浮腫を改善します。さらに熱を冷まして炎症を押さえます。この2つが主薬です。桂皮は防已と石膏による冷えすぎを改善するとともに血管を拡張して心臓の機能を高めます。人参には強心作用があります。

 妊婦さんで浮腫がある場合、当帰芍薬散か五苓散、あるいは防已黄耆湯が使われます。なかには心不全まではいかなくても咳などの呼吸器症状をともなう妊婦さんも珍しくはありません。そんな妊婦さんに木防已湯を処方したところ、浮腫とともに呼吸もラクになったと喜ばれるケースが多々あり、けっこう役にたつな、とハマっています。

 周産期心筋症という病気があります。母体の命にかかわるコワイ病気ですが、それで死亡したという報告は日本では年に数例もないというマレな疾患とされています。しかし、当院では12年前から4例も経験しています。急激に全身の浮腫が発症して、肺にも水が貯まるため体を起こしていないと呼吸が苦しくなります。浮腫の状態ははんぱでなく、顔までパンパンに腫れ上がり家族が心配するほどです。ですから日ごろこの病気を念頭においていれば見過ごしてしまうようなことはありません。

 周産期心筋症と判断したら早急に産科と循環器内科がある病院へ紹介したため、不幸な転機になったことはありません。最近では1週間で5㎏も体重増加した妊婦さんがいて心筋症の可能性が高いと判断し、もう赤ちゃんは十分に育っているので当院で帝王切開しました。お母さんの浮腫はどんどん良くなり無事退院しました。ただし心臓の検査はしていないので念のために退院後、循環器内科を紹介したところ、周産期心筋症の回復期との診断でした。危ないところでした。紹介した決め手は浮腫以外に軽度ですが咳が出ていたことです。日ごろ木防已湯を念頭において良かったなあ、とつくづく思ったことでした。