佐野理事長ブログ カーブ

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第433回 忙酔敬語 昭和30年代の食生活

 新型コロナ騒動で不景気な世の中となりました。でも世をはかなんだりせず、とにかく生きぬいてほしいものです。生きるための基本は飢えないこと。そこで戦後の飢えの記憶が残っていた昭和30年代の食生活についての思い出を紹介します。

 小樽生まれの私は、昭和33年、小学校にあがる前の年の秋、父の転勤にともない東京の西武池袋線富士見台駅の近くに引っ越しました。ちょうど東京タワーが完成したときでした。そして昭和38年に東京オリンピックから逃げるように小樽に戻り、さらに昭和39年の秋に釧路へ転校して翌40年に小学校を卒業しました。そのため、背景となる年代と生活の記憶が他の人たちよりも鮮明に思い起こすことができます。

 父は北海製罐の会社員でそこそこのエリートでした。北海製罐は缶詰の缶を製造する大手会社で、食品をあつかう関係上、父はときおり当時としては珍しい食品を家に持ち帰ることがありました。しかし山梨の片田舎の出身で基本的にケチ。「外食は高い」と言ってほとんどが母の手料理でした。母は整理整頓は苦手でしたが、洗濯と料理は好きなので別に苦にはしてなかったよう。父は下戸でその辺も母の負担は軽かったと思います。

 まず、小学校に上がる前の食卓。卵は当時から1個10円くらいで高級食材でした。ラーメンが一杯30円だったのでどのくらい貴重だったか想像つくでしょう。そんな貴重な卵ですから妹も含め卵かけご飯を食べるときは、父がおごそかに1個をかち割り、醤油をタップリ入れて、各お茶碗のご飯に4分の1ずつかけ回しました。卵かけご飯は最近、また脚光をあびてますが、もの心つくときから私の大好物。時代の先駆けをいっていました。ご飯茶碗に1個入れるなんて夢のまた夢。ガキのくせに辛党の私は漬け物大好きでした。タクワンや梅干しで小学校に上がる前からご飯はお代わりして2膳食べました。筋子やタラコはさらに大好き。これは当時からそうそう口にできませんでした。塩鮭も辛くカチンカチン、とにかくこれで何杯もご飯が食べられるというのが良いおかずでした。

 たまの外食は何と言ってもラーメン。今のラーメンと違ってトッピングはナルトにシナチク、ほうれん草のお浸し、固ゆで卵の薄切り、さらに薄いチャーシューと海苔。家でも母がときおり鶏のガラから出汁をとって作りましたが、当時から小樽のラーメンはレベルが高く、東京から来た美人のK伯母ちゃんが美味しい美味しいと言ってリクエストしていました。中華料理「梅月」ではいち早く、醤油ラーメンの他に塩ラーメンがメニューにありました。その塩ラーメンが絶品でした。どのラーメンでもスープは大人が「のどが渇くからやめなさい」と言っても聞かずに全部飲み干しました。だって美味しいんだもん。

 東京では毎日御用聞きが来て、魚の注文を受け、夕方に届けてくれました。北海道は魚介類で全国的に知られていますが、種類の多さでは東京にはかないません。タチウオ、ホウボウなど多彩な焼き魚を賞味しました。刺身ではカツオが好きでした。ワサビではなく生姜醤油。北海道で手に入るカツオは生きが落ちていて今でもダメです。くさやの干物もしょっぱくて良いおかずでした。

 釧路に行って驚いたのはクジラを刺身で食べることでした。新鮮なのが水揚げされるので、どの店でも刺身用で売っていました。生姜醤油が合い大好きでした。最近、捕鯨が復活してスーパーにも刺身用に出回っているそうです。また釧路に行ってみたいな・・・。 小学生にとって大事な給食については次回とします。