院長ブログ カーブ

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第338回 忙酔敬語  性同一性障害に関する私考

生理痛やお産で苦しんでいる女性を診ていてつくづく思うのは、女性って大変だなあ、ということです。
ある日、そんな患者さんに向かって言った言葉。
「もし、生まれ変わるとしたら、やっぱり女がいいですか? それとも男?」
よほどひどい生理痛でもなければ、ほとんどの患者さんは、女でいい、と答えます。
ああ、健康なんだなあ、と思いました。別に性同一性障害が不健康と言っているのではありません。生きやすくて良かったなあ、と思っただけです。
この、生まれ変わったら性別を変更したいかどうか、という質問、性同一性障害の簡単な指標になるのではないかと考えています。
私はどうかと言うと、20歳からは男として動じなくなりました。本当のところ来世なんてものは信じていませんが、生まれ変わっても断然男でありたいと思っています。
私の父は、江戸時代から代々伝わる田舎医者のせがれで、医者でははありませんが急患の手伝いなどを通して医学的な素養はある程度たたき込まれてきたため、子供の髪の毛は頭部の外傷の保護になると考え、おかげで2,3歳の頃の私はおかっぱ頭にさせられました。それが可愛らしいと思った両親はついでに丈の短いワンピースを着せました。
それがきっかけかどうかは分かりませんが、以来、私は性に関してあやふやな性癖をいだくようになりました。当時の女性のファッションの主流はロングスカートでした。幼い私は思いました。こんな中途半端なスカートはイヤだ、長いスカートがはきたい!
その頃、眠っているときの夢には高島田を着た自分の姿がよく登場しました。きれいなお嫁さんになりたい! それでいて一つ年上のご近所のべっぴんさんのサエちゃんとは仲良しで、4歳のとき、ファーストキスまでしました。もっとも誘ったのはサエちゃんで私は受け身。でもこれを契機に我が性癖は修正されました。
以後、小学生の5年までは、こくりはしませんでしたが、いつも心に秘めた女の子がいて、寝るときはその子のことを考えながら眠りにつきました。まあ、早熟ではありましたが性癖はしばらくそれ相応だったわけです。
私の父は転勤族で、そのため、生まれは小樽でしたが、小学校は1年から5年の秋まで東京、その後、小樽に転校し、釧路で卒業しました。
小樽に転校した朝、まだ授業前だったので、ぶらりと校庭に行ってみました。そこでは同級生となる連中が野球をしていました。投手をみてビックリしました。軟らかいフォームから繰り出される地をはうような速球、そしてその美少年ぶり。
可愛らしい女の子もいましたが、その夜から断然、小野君でした。美少年嗜好はギリシャ彫刻を見てさらにみがきがかかりました。まさに三島由紀夫の『仮面の告白』の世界への突入でした。きわめつきは高校2年生のときに見たフェデリコ・フェリーニの『サテリコン』。古代ローマの美しくも退廃的な雰囲気と奴隷の美少年に魅了されて一週間以上ボーッとして勉強も身に入らず、おかげで?成績はサッパリとなりました。
昨今、性的マイノリティーについてケンケンガクガクと議論されていますが、もともと日本は伝統的に井原西鶴の『好色一代男』でも分かるように、その辺のところは実に寛容でした。いまさら目くじらを立てることもなかろうと考えています。